あっという間に三月になりました。雪もなく、寒の戻りがあるとはいえ順調に暖かくなっていく関西にいると、雪の福井にいたのが嘘のようです。オリンピックを観ていたせいで、このところどこへも行くことなく穏やかな週末を過ごしていましたが、昨日土曜は久々に外出の機会。Tarlin父君の墓参りのついでに、追分か月ヶ瀬の梅林へ行ってみようと思いたちましたが、HPで開花情報を調べると、咲き始めもしくは三分咲き。見頃には早そうなので、いつも通り神座でラーメンを食べ、帰ってきました。
 帰り道、川縁に立つ梅の木に、白い花を鈴のように凛と枝いっぱいに付けています。今日一日の暖かさで一気に開花が進んだのでしょうか(梅林、行っておけばよかったかも)。目を転じると、田んぼには、鮮やかな黄色い菜の花の列。あぜ道には、水色のイヌノフグリの小花の群がり。一面の春の兆しです。
 それにしても、住宅街の中だけにいると、花壇の花や庭木しか目にせず、季節の移ろいにいま一つ鈍感になります。大きな公園でもいい。短時間でも街の囲いの外に出て、野山の息吹のある場所で、自然のリズムを身体に取り込むことの大切さを思い出した一時でした。

2006年3月4日(土) 春の兆し 

 誕生日祝いに花をもらいました。本当は昨日がErillの誕生日だったのですが、一日遅れで到着。Tarlinが当日水曜からから金曜まで出張で留守のため、宅配で花を届けてくれたのです。3月の誕生石、アメジストをイメージしたアレンジです。初めて誕生日にもらう花、いいものですね (^o^) ♪

2006年3月9日(木) 花をもらう 

 昨夜Tarlinが出張から戻ってきました。二人揃ったところで、Erillの誕生日祝いも兼ねて、久々に街へ出ました。まず、Tarlin義兄様から頂いた招待券でユトリロ展を観覧しようと、難波の高島屋へ。ちょうど越前若狭の物産展をやっています。昼過ぎですし、芸術の前に腹ごしらえをすべく、懐かしい越前おろしそばを頼みました。味は・・・本場の十割そばが恋しかったです。
 ユトリロ展鑑賞。ユトリロ没後50年記念の展覧会ということで、ユトリロの作品が80点ほど年代順に並んでいます。やはり「白の時代」の絵が、印象的です。深みがあり、哀愁が漂っています。今回の展覧会、「色彩の時代」の絵が多く展示されていましたが、ポスター画かイラストのような浅い絵で、いま一つ。ユトリロの絵は、どれも絵葉書を元に描かれていますが、この時期の作品は本当に絵葉書をそのまま油絵に起こしたような感じです。同じように絵葉書を題材にしながら、陰影のある絵画作品に昇華されている「白の時代」の作品とは、質が全く違います。「白の時代」のユトリロは、アルコール中毒に苦しめられていたそうです。苦悩の時期の作品ほど深遠な名作が生まれるのは、芸術の皮肉でしょうか。
 その後、服飾売り場でしばしお買い物などして、地下鉄で西梅田へ。ジュンク堂書店で時間をつぶした後、大阪四季劇場へ向かいました。本日のメイン、「マンマ・ミーア」観劇です。昨年の「アイーダ」に次いで、Tarlinの会社の慰労行事なので、席の周りはTarlinの会社の方がずらりと並んでいます。粗筋は、はっきり言ってかなりはちゃめちゃです。結婚式を控えた娘と、彼女を育てたシングルマザーと、彼女の若き日の恋人かつ娘の父親候補である三人の男性(!)が繰り広げるコメディー。Tarlinいわく、「モラル・ハザードを軽く越えとる」。確かに、日本社会の一般的な家族観では、とんでもなく特別な話です。が、ヨーロッパ、特に北西欧では、結婚よりも同棲が多く、兄弟姉妹全て父母の組み合わせが違うということもよくあり、このミュージカルの状況は、ここまで極端なことはさすがにそいうないとはいえ、ある程度リアルなのではないでしょうか。自由といえば自由ですが、最終的に頼るものが自分しかない、かなり厳しい生き方を送るヨーロッパの人々には、ABBAの軽快で楽しい曲に乗せて歌われる主人公たちの心情は、誰もが本音で共感できるのではないかと思います。とにかく、主役の保坂知寿さんの歌がパワフルで圧倒的。娘役の宮崎しょうこさんはじめ、他のキャストも歌・踊りとも大変力強く、理屈抜きに楽しいミュージカルでした。
 観劇の後、アクティのリヨンというフランス風家庭料理屋で夜景を見ながらの夕食を取ったあ、帰途に着きました。なかなか盛りだくさんの、楽しい休日でした。
 

2006年3月11日(土) ユトリロ展とマンマ・ミーア 

 この日曜からずっと、旅の準備に追われています。行き先は韓国へチャングム・ツアー・・・はまだ寒そうなので9月頃に延期し、Tarlinの意向で瀬戸内は広島へ行くことにしました。チャングム・ワールドを蹴って(いや、延期しただけなのですが)、Tarlinを瀬戸内へ向かわせたのは何か?何でも1月に見た映画、「男達のYAMATO」のロケセットがこの春限定で公開されているので、それを見たいのだそうです。しかも呉の戦艦大和戦没者墓地にも行きたいとのたまいいます。
 Erilll、戦艦大和は戦争の悲惨さと愚かさ、巨大軍艦への憧憬と郷愁の二律背反する側面を感じ、「ついていけない(@_@)?」かつ「見るのもつらい(;_;)」かつ「心して記憶すべき歴史(-_-)」と一筋縄ではいかぬ思いに囚われ、一瞬躊躇したのですが、ガイドブックであるものを目にしたことで、すっかり行く気になりました。尾道の猫!広島風お好み焼きと牡蠣!もそうですが、江田島の旧海軍学校と呉の入船山記念館です。旧海軍学校は赤煉瓦の英国様式の館、入船山記念館は木造で東郷平八郎の家の離れなどがある、いずれも明治期の非常に美しい洋館。そして、両者とも日露戦争期の海軍とゆかりがあります。明治、洋館、海軍、日露戦争・・・とくれば、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の香りが漂って来るではありませんか。というわけで、Tarlinの趣味に沿いつつErillなりの主題が見つかったので(主題と言うほどでもありませんが)、18日から21日までの瀬戸内海事紀行、共に旅することにいたしました。
 折しも、先日Tarlin姉上宅にて目にした朝日新聞に「文化廻廊としての瀬戸内海」という記事に、考古学者の上田正昭、国文学者の中西進、映画監督の篠田正浩、日本画家の平山郁夫、四氏の講演とディスカッションの要旨が載っており、「瀬戸内海は遣唐使の時代から源平合戦、江戸期にいたるまで、常に外海に開かれた内海の水路であり、瀬戸内を制する者は日本を制した」という内容の文を目にしました。負の側面も多いですが、旧海軍の史跡を通して、要所としての瀬戸内の歴史の一面に触れる旅になるのでは、と思います。

2006年3月16日(木) 瀬戸内へ 

 朝8時、京都から昼便のバスで広島へ。今回は街を縫う旅なので、「経済的」かつ「運転から解放されてTarlinが楽」なように、広島までの往復は高速バス、街と街の間は鉄道で移動です。途中、少し渋滞に巻き込まれ、30分遅れで14時半過ぎ小雨に煙る広島に到着しました。
 広島といえば、広島風お好み焼き。 何しろ、この前の日曜日は、美味しいお好み焼き屋さんを探すために一日中インターネットをサーフィンして情報を集めるのに時間を費やしたのですから、ここは一番、美味しいのを食べねば故郷に帰れないというものです。 この時間は空いている店が少ないのですが、「みっちゃん」という広島風お好み焼きの形を最初に作ったという、いわば広島風お好み焼きの元祖のお店が開いていたので、遅い昼食をとるべく、入ってみました。初めて食べた広島風は、生地や柔らかく、麺はぱりぱり、特性ソースは甘すぎず、辛すぎず、上品ないい味でした。
 今日は、明日からの旅程をこなすために広島入りしたようなもの。平和記念公園は行ったことがあるし、宮島に行くには時間が足りないし、ということで、広島県立美術館へ。折しも「エルミタージュ美術館展 - フランドル絵画とヨーロッパ工芸の精華」という名目で、フランドル絵画でもテニールスという日本ではあまり注目されませんが、ヨーロッパで評価の高い画家に焦点を当てた、面白そうな展覧会を開催しています。しかも、広島限定で、関東にも関西にも巡回はないときてます。メインのテニールスの絵は、都市や農村の庶民の生活を生き生きと描きながらも、寓意や風刺が効きすぎることはなく、ほどよい穏やかさと品性があり、対象への愛情が見る者に沁みてくる秀作でした。また、美術館もいい建物でした。

2006年3月18日(土) 瀬戸内海事紀行 第1日 広島

 今日から、メインの旅程が始まります。張り切って、朝は5時半起き。それでも、呉で見たい物は全て見切れないという、Tarlinの思い入れの深さ。(Erillのみ)眠い目をこすりつつ、列車の車窓から瀬戸内の風景を眺めながら、呉へ向かいました。呉で最初に訪れたのは、旧海軍墓地の長迫公園。「戦艦大和戦死者之碑」をはじめ、戦艦ごとに立てられた慰霊碑が並んでいます。第二次大戦の戦死者に黙祷した後、静かな気持ちで、大和ミュージアムへ・・・のはずが、着いてびっくり。建物に入る前に、観光バスから吐き出された人々で、長く続く列が出来ています。まるでTDLかUSJ、万博会場のような騒ぎです。入ってみてまたびっくり。人・人・人、人だらけで、展示の前は三重くらいの人の列・・・ これまた、ダ・ビンチかフェルメールの代表作

2006年3月19日(日) 瀬戸内海事紀行 第2日 呉 

 芸術鑑賞の後は、再び「食」。昼食が遅かったし、牡蠣など他の広島名物は明日以降の予定に入れてあるので、広島風お好み焼きの店に、もう一件行ってみることにしました。「八昌」という評判のお店です。が、行ってみると、すでに長〜い行列が・・・( ̄▽ ̄;)!!しかし、せっかくなら美味しいところで食べたい!意を決して、並びました。そぼ降る雨の中、待つこと45分。ありついたお好み焼きは、かりかりのそば、クレープのようなクリーミーな生地、しっとりと蒸されたキャベ

ツが一体となった、非の打ち所のないものでした。お昼のお店も美味しかったですが、そさらに、一段、二段上の味。関西風お好み焼き信奉者のTarlinも大満足で、行列の苦労は報われたのでした。

くほく。カレーは小麦粉たっぷりの昔懐かしいルーで、どちらも素朴な、古き良き時代を感じさせる味でした。
 食後は、旧海軍呉鎮守府の入船山記念館へ。一番の見所、司令長官官舎は明治時代の重厚な洋館で、国の重要文化財になっています。英国風ハーフティンバーの瀟洒な外観に、珍しい金唐紙の内装が豪華です。客室には、大正時代のドイツ製のピアノもあります。このピアノ、この日1時からのコンサートで音色を聴けたのですが、次の予定が押しているので、後ろ髪を引かれつつも記念館を後にしました。

が来たときのような騒ぎです。映画の力って、恐ろしいですね(-_-;。さすがの Tarlin も、ほうほうの体(Tarlin は閉所・暗所恐怖症ですが、人混みにも滅法弱いのです。)で、主立った展示だけを見て、二時間あまりで博物館を抜け出しました。
 疲れたし、お昼時も近いし、ということで、呉で有名な洋食屋さん、「いせ屋」に入りました。明治・大正に海軍の従軍コックさんが開いたこの店では、旧海軍が発祥と言われるカレーライスと肉じゃがが、当時そのままの味で出てきます。肉じゃがは、お芋の中までしっかり味がしみ込み、ほ

 次は、高速船で対岸の江田島へ渡ります。ここには、明治時代の旧海軍兵学校があり、現在は海上自衛隊の教育施設になっています。退官した自衛官の案内で構内を見学、この日は祝日なので駄目でしたが、平日であれば自衛隊の訓練風景が見える・・・と書くと、何やらものものしいですが、旧海軍兵学校は明治期の赤煉瓦、大講堂は大正期の白亜の石造りの荘重な佇まいの洋館で、純粋に美しく、近代日本黎明期の意気が漂っていました。

 教育参考館には、旧海軍の歴史を語る資料が展示され、司馬遼太郎『坂の上の雲』に登場する広瀬武雄中佐関係もあり、Erill思わず熱心に見入ってしまいました。しかし、何よりも印象的なのは、特攻で出撃していった少年兵の遺書です。戦艦大和の沖縄特攻もそうですが、当時の日本は、なぜこれほどまでに正気を失っていたのか。この過ちを繰り返さないことが、戦死者への何よりの弔いであるという気持ちが自然に涌いてくる呉の一日でした。
 それにしても、戦争は悲惨ですが、海軍の文化は粋。呉は、富国強兵の正と負、両方の側面が残る街でした。歴史の重さに少し疲れた夜には、「かき舟」で名産の牡蠣料理。産地で食べる牡蠣は新鮮でぷりぷり。関西に運ばれ売られている物とはまるで別物の、贅沢な味わいでした。

 昨日に続き、今朝も5時半起床。この旅の大目的の一つ、尾道にある映画『男達の大和』のロケセットに、少しでも早く入るためです。呉から尾道へは、列車で2時間弱。朝6時50分発の列車に乗り込みました。

2006年3月20日(月) 瀬戸内海事紀行 第3日 尾道 

 食事の後は、町歩きです。宿が千光寺の山の上なので、まず、タクシーで宿へ向かい、荷物を預け身を軽くしてから、千光寺公園より散策を開始しました。山頂の展望台に上ると、穏やかな晴れ空の元、山麓に尾道の町並みが広がり、尾道水道を挟んで向島、その向こうには、淡い水色の海に瀬戸内の島々が遠く霞んでいます。いつまで見ていても飽きない風景です。
 山頂の公園から、「文学のこみち」という散歩道が続いています。志賀直哉や林芙美子の文学碑を辿りながら、坂道を

 ロケセットは、尾道から海を挟んで対岸の向島にあります。駅近くの渡船場から中国の四阿のような屋根のついた船に揺られること5分。そこからさらにシャトルバスで現場に到着しました。時刻は9時10分。開場直後なので、まあまあ空いています。目前には、原寸大の戦艦大和の巨体。甲板に上がると、幅40m、全長190m(本物は263m!)の広大さに、驚くばかりです。

 当時の技術の粋を集めて建造された戦艦大和。これだけのものが、たった2年半しか存在せず、しかも3333人の命を載せて死地へと送り出され、沈んでいったとは・・・ いったい何のためだったのか。その存在が立派であればあるほど、やり場のない怒りと空しさがこみ上げてきます。唯一の救いは、戦後、大和を造った技術が造船をはじめ様々な産業に生かされ、日本の復興を牽引したことでしょう。戦争は全てを殺すが、平和は負をも生かす。見る人に応じて、様々なものを語りかけてくる大和の、これがErillに聞こえ

 てきたことでした。Tarlinも心ゆくまで浸れたようですし、Erillも来てよかったと思いつつ、ロケセットを後にしました。細い海を挟んで、尾道の街が見えます。山の斜面に、折り重なるように連なる家々の屋根。昭和から平成になっても変わらない、穏やかな風景です。船を下り、尾道に戻ると、ちょうどお昼前。名にしおう尾道ラーメンを食べようと、評判の

いい朱華園という店に入りました。広島のお好み焼きに続き、今回も行列。でもお好み焼きより回転は速く、20分ほどで店内に入れました。平麺に、醤油ベースに脂身を浮かべたスープはあっさり味ながらコクがあり、噂に違わぬ美味しさでした。

 下りて行きます。樹木の間から、町並みと海が見えます。中腹の千光寺で一服し、少し坂を下りるともう家々がひしめく尾道の細い路地です。天気がいいので、建物の中には入らずに、時折写真を撮りながら、西端の浄土寺から東端の持光寺までひたすら散策。古い木造の家がほとんどで、昭和の半ばから時間が止まったようです。そして、この街の良さは、人々が普通の生活を守っていること。過度な観光化はされず、旅行者は地元の人々の生活空間を歩くのです。そして、坂道。複雑に折れる坂道は、空間に陰影を生み出し、大林宣彦監督でなくとも(ファンというわけではありませんが)時間が交錯するような感覚にとらわれます。そんな不可思議さと、日常生活が平然と同居する尾道の路地。Tarlinには初めて、Erillには2度目の尾道ですが、来るたびに魅力は深まるようです。

 坂道を歩き疲れて、宿に戻るためロープウェイに乗り、再び千光寺山の上へ。夕日を見ようと展望台に上りましたが、風が冷たく、日の入りまで一時間はあったため、あきらめて宿へ入りました。この宿は、眺望が自慢。部屋の窓から暮れゆく尾道が見えます。尾道大橋を挟んで、街には灯がともり、海は暗く沈んでいきます。人の暮らしを感じさせる夕景に見とれながら、旅の3日目は終わりました。

 今朝はのんびりと8時に朝食。これまで早起きが続いていたので、朝の弱いErill、旅の最終日にしてやっと一息つけた感です。今日は、夕方まで尾道探訪。曇天なので、屋内の展示中心に廻る計画です。始めに、宿から近い尾道市立美術館で「日本近代洋画への道〜高橋由一から藤島武二まで」を鑑賞。

2006年3月21日(火) 瀬戸内海事紀行 第4日 尾道 

 Erill、福井に行っていてなかなか会えなかった学生時代の友達2人と、大阪で半年ぶりに会ってきました。オランダ家庭料理の店、アウデ・カースでお昼に待ち合わせ。今日の友達は、お酒が強いので、お昼から私もオランダ・ビールでご相伴です。このお店は何時来ても気取らない味で、美味しいです。日替わりランチのチキン・ソテーとゴーダチーズのパンナ・クックを試しましたが、味もボリュームもたっぷり楽しめました。
 食後は、腹ごなしも兼ねて、大阪国際美術館で開催中のプーシキン美術館展へ。ロシアの目利きの商人のコレクションで、モネ、ルノアール、ゴーギャン、セザンヌ、マティス、ピカソ、ブラックと、印象派からキュビスムまでの近代絵画の巨匠を網羅した、近現代美術史の流れをそのまま再現したような、質の高い内容でした。点数は全体で約50枚と多かったのですが、一人の画家につき数点で、作風が次々と変わっていくので(しかも名品揃い)、楽しく、見飽きません。友達の一人は、ロシアに留学していたので、現地の美術館の内装の様子も、いろいろ聞くことが出来ました。Erill、実は彼女に案内してもらってロシアを旅したことがあります。今、その旅行記を作成しているところですが、なかなか仕上がりません(;_;)。頑張って、書かなきゃ。
 美術展の後、お茶をするところを探して、ふらふらさまよっているうちに夕方の6時前になったので、そのまま少し早めの夕食に、沖縄居酒屋に入ってみました。3人ともそれぞれ沖縄に行ったことがあるので、ソーキソバやラフテーを懐かしく味わいました。沖縄から来たと覚しき人のグループがいて、若い女の子が三線を鳴らして、美しい声で民謡を歌いだし、周りの人が自然と手拍子とカチャーシーの踊りで併せています。いい雰囲気です。春の甲子園に出場中の八重山商工の応援に来た人達だそうです。見事勝ったので、それを祝う人達でお店はいつになく満席なのだとか。楽しい一日のしめくくりにふさわしい、賑やかな店内でした。

2006年3月24日(金) プーシキン美術館展と沖縄居酒屋 

2006年3月29日(土) 大山崎山荘の早春 

 千光寺公園から今一度、運河のような海と町並みを眺め、宿の脇から伸びる地元の人しか使わない道を下りて街へ下りました。時は11時。昼食を予約した店が街の西側なので、西へ向かって歩くことにしました。

 安藤忠夫設計で、展示室と展示室の間にガラス張りの空間が取り入れられ、合間に瀬戸内の風景が眺められるのが心地よい所です。展示も、高橋由一や藤島武二をはじめ、黒田清輝、青木繁などの名品が並び、江戸から明治にかけての近代洋画の流れがよく分かる内容で、充実していました。日本人の作品は、すっと皮膚感覚を通すようになじむものがあり、ほっとします。それにしても、林芙美子や志賀直哉らの文人に愛された尾道は、明治から大正・昭和初期の文化が似合います。呉もそうでしたが、日本の近代化を支えた瀬戸内の街の気風なのでしょうか。

 お昼の後は、おのみち映画資料館に入ってみました。尾道で撮影された映画の展示があり、小津安二郎監督の「東京物語」のロケの様子や、尾道についての紹介ビデオ、企画展で吉永さゆりの全作品の紹介などがありました。古い作品が多く、私たちの親世代が見たら、懐かしいのかも、と思わせる展示でした。せっかくこんな施設があるなら、尾道出身の大林監督の作品紹介も(それ目当ての人も多いでしょうし)すればいいのにと思いましたが、これからなのでしょうか?
 次は、おのみち歴史博物館。昔の銀行の建物を利用した博物館らしく大金庫や通帳の他、遺跡から出土した土器や磁器も展示されていました。が、本当に小さな博物館でした。

 そこから、西国寺へ行ってみました。大きな草鞋のかかった山門からは山の中腹の三重の塔が見え、絵になります。この三重の塔、境内からも本堂といっしょに写真に臨むことができ、景観のいい、立派なお寺でした。
 お昼は、青柳というお店。オコゼの唐揚げが名物です。唐揚げはオコゼの姿そのままで、一瞬グロテスクですが(^^;、淡泊で上品な味わい。絶品です。揚げその他、ウニ飯や炊き合わせ、どれも洗練された美味しさで、また食べたくなる味でした。

 ここでTarlinからのリクエスト。「映画『転校生』に出ていた、踏切から道がそのままお寺の石段へ続く所に行ってみたい。」1つ、2つと踏切をすぎて、3つめに出てきた宝土寺下の踏切がどうもそうらしいのですが、微妙に角度が違うらしいのです。いわく、映画では踏切のすぐ上にお寺の山門に見

えるのに、この場所では踏切から少し右側にずれて山門が見えている、というのです。もしかしたら、電車が通るときに、まっすぐ見えるのかもと思い、電車が来るのを待ちました。が、しかし、電車は石段どころか山門をも隠してしまいました・・・地図でみたところ、他にそれらしい踏切もないし、映画はちょうどいい構図に収まるように、向かいの家の屋上とか、普通では無理な所から撮影しているのでは、という推論に落ち着きました。

 その後は、再び山の手(?)に上がり、林芙美子の書斎を復元した文学記念室、志賀直哉旧居に寄って、尾道の風情に親しんだ文人達に羨望を覚えると、もう夕刻。名残は尽きませんが、坂道を急ぎ下りて、尾道駅に向かいました。
 尾道からは列車で福山に移動。福山から再び高速バスに揺られて京都に戻りました。ささやかながら瀬戸内に咲いた明治から昭和にかけての近代文化の香りを感じられた4日間でした。

 Erill、今日は大山崎山荘美術館に行って来ました。Tarlinは懸命に勤めに励んでおるのに、Erillは遊び歩いてばかりではないか、とお叱りの声が聞こえてきそうです。すいません、その通りです・・・ しょぼん。
 気を取り直して、この日いっしょに出かけた友達は小さいお子さんがいて、普段はなかなか自由に出歩けないのですが、今日はご両親が面倒を見てくれるとかで、またとない機会なので、ぜひいっしょに出かけようということになりました。山崎で唯一ランチが楽しめる店は水曜定休でお休みなので、高槻の自然食レストランでお昼を食べ、列車で山崎に向かいました。

 せっかくの3月の春の一日だというのに、何の因果か小雨が降り始め、雪に雹まで混じっています。それでもめげずに山崎の駅からはシャトルバスで美術館に降り立ちました。ここは大正期の実業家の邸宅で、緑豊かな庭園と、重厚な木造の洋館を巡るのが愉しい美術館。季節はずれの寒気にも負けず、美術館の庭には早春の花が健気に咲いています。木蓮、椿、木瓜、沈丁花、薄紅色の枝垂れ桜も雅びに花開き、秀麗な姿を見せています。
 美術館の建物に着きました。英国式の重厚な木彫の壁に、大きな暖炉、振り子時計、オルゴール、階段のたたきにはステンドグラス・・・全てがゆったりと流れる古えの時を感じさせてくれます。その空間におかれた、民芸運動の中で生まれた河井寛次郎や濱田庄司の味のある陶器。当時の富裕層は、心も裕福だったのですね。
 開館10周年記念ということで、新館の西洋絵画もモネ、ルノワール、ドガ、モディリアニ、ピカソと、所蔵している名

画を一挙に惜しみなく展示してあり、見応えがありました。記念の絵葉書4枚セットも無料でもらえ、なんだかとても得した気分になりました。肌寒かったですが、大正期の爛漫な豊かさを分けてもらったような、春の午後でした。