シンプリアン・カツァリス ピアノリサイタル

平成20年(2008年)10月31日(金曜日)
秋篠音楽堂
19:00開演

 それは、4ヶ月前の7月のとある日。奈良の某ショッピングセンターの、とある音楽堂でカツァリスのコンサートがあると知ったErill。こんなローカルな小ホールに、世界的名ピアニストが来る!しかも、この辺はピアノ愛好者多し。これは大変!チケットは大変な争奪戦!と案じ、カツァリス大ファンのTarlin母様と共に、前売り券発売日に売り出しの1時間前にショッピングセンターの通用口で待機。発売時間にホールの窓口に直行したのです。しかし、開店直後のデパート内は、いたって人気もまばら。チケット売り場には我々と、数分後に来たスーツ姿の男性だけ(@_@)
 拍子抜けな結果に、車を出してくれたTarlinいわく、「これって、全席自由じゃろ。むしろ、当日の席取りを頑張らねばならぬのでは。チケットなんて聴く権利だけじゃから、何かのついででよかったのよ。」う〜む、権利を買うにも急がねばと思ったのですが、ほどほどでよかったようです(^^;;;
 何はともあれ、無事チケットを入手し、一安心。リサイタルの前日には、公開レッスンも開かれます。Erill、こちらも聴くことにしました。ホールにはいると、楽譜を持参し、熱心に予習されている人がかなりいます。Erillのように、お気楽に聴きに来ている人の方が少ないような(^^;;;
 生徒さんは全部で三人。中学生の女の子、現役の音大男子学生、そして、現在はピアノ講師をされているピアノ専攻の男性。年齢も背景も違う生徒さん。カツァリス先生、どの方にも優しく語りかけ、個性を引き出そうとしておられるのが、印象的でした。
 指導内容も、生徒さんの状況に応じ、中学生には指使いや日々の基本的な技術の練習法です。メンデルスゾーンの「厳格なる変奏曲op.54」曲を、大人顔負けの音色・表情ともに豊かに弾ききった生徒さん。様子から、左利きであることに気付かれたカツァリス氏。左利き特有の弱点を克服するため、曲中のフレーズを取り出し、右手の練習法を、懇切丁寧に伝授されていました。
 次の生徒さんは、全国コンクールを控えた音大生。コンクールで弾くシューベルトの大曲「ピアノソナタ変ロ長調 D.960(遺作)」を演奏。楽曲分析と解釈が中心の、専門的な本格レッスンとなりました。この曲は、明日のリサイタルのメインの演目でもあります。本番を前に、演奏者自身の解釈を聴くことができ、大変勉強になると同時に、リサイタルがますます楽しみになりました。
 最後の、ピアノ講師の方の演奏は、バッハ作曲の「トッカータ ハ短調 BWV.911」です。一通り弾き終えると、カツァリス先生、「いろんなCDの演奏を真似ていませんか?お仕事は?ピアノの先生をされていて、時間がなかなかとれないのですね。でも自信を持って、あなた自身の考えをぜひ弾いて表して下さい。バッハではなく、あなた自身が作曲したと思って、もう一度自由な心で弾いてみて。」なんと新鮮で、厳しくも思いやりにふれ、即効性抜群のアドバイスでしょう。柔軟な喩えで、一瞬にして生徒さんの心と発想を無理なく開かせてしまいました。そのあとに弾かれた演奏は、音もフレーズものびのびと響いていました。
 どの生徒さんに対しても共通して繰り返し語っていたのは、「一番大切なのは、自分自身の考えを大切にし、それを演奏にすること。」そのためには、「自信を持って、はっきりと表情をつける。たとえやり過ぎに思えても、大丈夫。むしろそれくらいでないと、往々にして伝わらない。」そして、「練習の時は、たとえpやppの箇所でも、大きな音で、ゆっくりしっかり弾く。」
 人と自由を大切にする温かな生き方が、生を豊かにし、豊かな音楽になる。そんなカツァリスの人と成りが伝わってくる、音楽にとどまらず、人生の秘訣すら感じさせられたひとときでした。こんな温かな人柄で柔軟な発想の方がNHKの『スーパーピアノレッスン』の先生なら、生徒さんは幸せだろうなぁ、怖くないし。見る方も幸せな気分になれるなあ、と思っていたら、やはり過去に講師を担当されたそうです。う〜ん、見てみたかった。

 昨日の公開レッスンに続き、今日はカツァリスのピアノ・リサイタル。開場の一時間に並び、前から数列目の、演奏者の手元が見える左側の席に着くことができました。
 カツァリス、舞台に登場し、ヤマハのグランドピアノの前に腰掛けたかと思うと間をおかずに、何の前触れもなく、いきなり弾き始めます。まるでなんでもな日々の習慣のようです。楽器の前で精神統一したり、一呼吸置いて演奏を始める奏者に慣れていたErill、聴く準備が出来ておらず、めんくらってしまいました(^^;;; 
 プログラム前半は、ショパン。前奏曲「雨だれ」から始まって、ワルツ2&7番、ノクターン2番、マズルカ、幻想即興曲、子守歌など、親しみのある曲が並びます。しかし、繊細で自由な表情はもちろん、時には内声を浮かび上がらせ、カツァリスならではの「第2の旋律」を歌い上げます。他に無いユニークな、まるで魔術のような優しく美しい音の世界が展開してゆきます。CDで聴いていたワルツなども、味付けが変わって、また新しい演奏になっています。CD録音では音質のせいか、さらりと聞こえるきらいがあるカツァリスの演奏、実際に聴いてみると、色彩豊かで音量も変化が大きく、内容たっぷりです。
 休憩を挟んで、後半はシューベルト「ピアノソナタ変ロ長調D.960(遺作)」。昨日の公開講座で取り上げられた曲です。カツァリス氏が解釈された、死の訪れとの対話。不安。祈り。そして、救い。レッスンで語られたストーリーが豊かな音となって、時に力強く、時に深刻に、美しく流れていきます。ともすると冗長に聞こえがちなシューベルト。カツァリスの手にかかると、表情と音色が絶え間なく自然に変化し、いっこうに飽きません。深刻な主題なのに、いつまでも聴いていたくなります。それはまた、カツァリス自身の死との対話でもあるのでしょうか。人生の何事も、時の流れと共に自然に受け止める、そんな人生の姿勢をも垣間見えたようでした。
 アンコールが、これまた多彩。ピアノを文字通りバンジョーのように掻き鳴らすゴットシャルク作曲「バンジョー」。モーツァルト作曲と伝わる「バター&ブレッド」では、鍵盤の上で指をバターナイフのように自在に滑らせ、グリッサンドの連続披露。ドボルザーク「スラブ舞曲」は、哀愁あふれるアンコールの定番。最後に、バッハの平均率ピアノ曲集第1巻第1番「前奏曲」の、シンプルな音の粒の転がるような輝き・・・アンコールの4曲だけでも、もう小さな物語構成になっています。ピアノという楽器の可能性、生演奏の楽しさを、名人の技術で、遊び心たっぷりに存分に魅せてくれた「アンコールの中のアンコール」でした。
 これほど生で聴くよさを実感した演奏家は、他にありません。優れた芸術家は、極上のエンターティナー。演奏の合間、そして演奏会終了後のサイン会で見せてれた、まろやかな笑顔が全てを物語っています。ピアノの達人は、人生の達人。心豊かな生き方を、教えてくれた2日間でした。

【本公演】

【公開レッスン】

公開レッスン: 秋篠音楽堂 10月30日(木曜日) 15:00