監督: PETER WEBBER(ピーター・ウェーバー)

キャスト:

グリート
フェルメール
カタリーナ
マ−リア・ティンス
ファン・ライフェン

2004年6月3日(木曜日)
シネ・リーブル梅田

真珠の耳飾りの少女

 6年前の秋、憧れのその少女に対面した。古い宮殿の小さな白い部屋に、少女と私の二人きり。少女から流れてくる清逸な澄んだ光と、その瞳が投げかける不思議な眼差しが心を静かに浸し、その場にただ佇み続けた。

 その少女の名は、「真珠の耳飾りの少女」。別名「青いターバンの少女」と呼ばれる、フェルメールの代表作。少女がひっそりと飾られている古い宮殿は、オランダ、ハーグのマウリッツハウス美術館。4年前には、大阪の美術館に展覧会で来日し、全国の美術愛好家を魅了した。

 その憧れの名画が映画になったと聞き、映画館に足を運んだ。白水社から刊行されている原作小説を読み終えてから行こうと思ったが、結局、当日、電車の中で最初の数十ページだけ読んで映画を観ることになった。だが、読まないで観て良かった。原作との違いが気になり、細密に時代を再現したせっかくの映像世界に入り込めなくなるところだった。

 映画の冒頭。白い壁に囲まれた部屋で、一人うつむき、まな板に向かう少女がいる。上方にある窓から差し込む光が、簡素な空間を静かに満たしている。フェルメールの絵画そのままの空間構成と、静寂。この場面だけで、この映画の世界に引き込まれ、観に来てよかったと思う。

 冒頭の場面を始め、映画の全編を通して、フェルメールの絵画の構成をよく研究し、映像で再現した場面がちりばめられている。少女の家の台所や、フェルメールのアトリエの場面は、フェルメールが好んで描いた窓辺に人物が立っている風俗画を髣髴とさせる。赤レンガの町並みに運河が流れ、橋のアーチ越しに家並みが覗く風景は、その奥行きある構図が、フェルメール絵画の遠近感を思わせる。

 加えて、入念な考証のもと、フェルメールの家の内部やデルフトの町の様子がきめ細かに再現され、見ていると、17世紀のデルフトの街中にさ迷い込んだような気分になる。赤レンガの家に囲まれた路地、運河を行きかう船、精肉市場の雑踏。何年か前、デルフトの街を訪ねたことがあるが、当時はこんな様子だったのかと、一つ一つ感心してしまう。特に、フェルメールの家は、アトリエを始め、部屋の配置や内装、台所用品まで出来うる限り再現されていて、興味深い。また、人々の服装や、宴席での食事風景、掃除や洗濯といった作業風景など、当時の人々の息吹が生き生きと伝わってくるようだった。映画に限らず、文学でも絵画でも、良い作品には、そこに描かれた世界を生き生きと立ち上らせる空気感がある。この映画も、そんな空気感で満ちている。

 物語は、17世紀の空気のもと、張り詰めるような緊迫感の中で展開していく。デルフト焼きの絵付師であった少女の父親が、事故で視覚を失って、失職する(この辺りの事情は、映画では詳しく触れられておらず、パンフレットの粗筋に載っていた。)少女は、家計を助けるために、フェルメールの家に住み込み女中として、働きにやって来る。そして、画家のアトリエの掃除を任される。(原作では、少女が、失明した父親のために物を動かさずに掃除をすることに慣れているため、作成中の絵画のために置かれた物を、寸分たりとも動かしてはならないアトリエの掃除を任された、という設定になっている。)

 少女が来ることで、フェルメールの家族の間に新たな均衡が生じ、緊迫感が高まる。17世紀の人々にふさわしく、言葉少なく、それぞれの思いを内に秘めている登場人物達のおかげで、この緊迫感はいっそう鋭く表現される。主人公の少女役のスカーレット・ヨハンソンや、フェルメール役のコリン・ファースをはじめ、俳優陣の演技もよく、抑えた表情と仕草で、心の奥底の動きまで表現している。

 日常生活の喧騒でごったがえした家庭の中で、一つ上の階に設けられた画家のアトリエは、全ての現実生活の雑事から隔離された、一種のアジール(聖なる避難所)である。アトリエの掃除係りを任され、アジールに入り込んだことで、主人公の少女は、自らの中に眠る芸術への感覚を呼び覚まされる。やがて、フェルメールに色彩感覚を認められ、絵の具を調合するようになる。芸術を理解する者同士だけが共有できる世界を介して、少女とフェルメールは、あらがいがたい必然の流れで、互いに惹かれ合うようになる。

 一方、フェルメールの妻カタリーナは、芸術というものを根本的に理解しない、日常に浸かりきった人物。二人の間にただならぬ気配を感じたカタリーナは、少女に嫉妬するようになる。芸術に理解があり、かつ家計を切り回す手腕も備わっていたカタリーナの母、マーリア・ティンスは、全てを察しつつ、一家の暮らしを守るため、少女とフェルメールのつながりを容認する。

 一家の緊張は、画家のパトロンが、少女を絵に描くようにを依頼したことで、一気に高まる。マーリア・ティンスのはからいのもと、カタリーナに知らせないまま、少女の肖像画の制作を進めるフェルメール。少女とフェルメールは、自らの立場と、自らに課した規範を守るため、心に葛藤を繰り返しながら互いの気持ちを抑制し、感情と官能の高まりを芸術へと昇華させる。

 芸術の力によって結ばれた者の心に起こる葛藤、そして、その力を感知しない、あるいは利用しようとする人々との相克。それらの相克を、ぎりぎりの線で制し、昇華した所に成り立つ「美」。幾度かの関門を経て、肖像画の作成は、着々と進められる。そして、肖像画が完成に近づき、作品を仕上げるため、少女が真珠の耳飾りを付けた瞬間、二人の間に流れる官能もピークに達する。しかし、その直後、肖像画が完成し、その美が結実し、日常の中に露見した瞬間、それまで危うくも保たれていた均衡は破られ、崩壊し、人々は破滅へと追いやられてしまう。

 芸術の力が促す、少女の成長と官能の目覚め。人間の内面の相克が、美に昇華されていく過程。芸術が人々の間にもたらす悲劇。芸術と美をめぐる様々なテーマを、画家の一家と少女をめぐる官能の物語として、一つにまとめあげるストーリーテリングは秀逸で、大変魅力的であると思う。

 だが、それにもかかわらず、映画を見て、原作を読み終えた後も、この物語に対するある違和感がぬぐえなった。それは、ひとえに、私がフェルメールの絵画に対して抱いているイメージと、この物語が描く少女像との隔たりから来ている。

 フェルメールの専門家、小林頼子さんは、「フェルメールの世界−17世紀オランダ風景画家の奇跡」という本の中で、フェルメールの絵画には、「絵画のなかに生まれ、絵画の中に生き、絵画のなかに回帰するしかない不可思議な時間」が流れており、そこに描かれた女性は、「現実のいっさいから切り離された、夢のような時間を手触りあるものに変えるために選ばれた巫女のような存在」であると語っている。

 私にとって、フェルメールの絵画の本質を、これほどよく表した表現はないように思う。一切の現実的な行為や意味づけ、時間の流れから開放され、物語の一場面を感じさせながらも、一切の物語的解釈を拒否し、永遠にとどまった瞬間の中で、清澄さな静寂を放射する空間。その代表作である、永遠の中に佇んでいるかのような「真珠の耳飾りの少女」から、逆にこのような官能と愛憎が渦巻く、赤裸々なまでに人間的な物語が着想されたことに、驚くと同時にとまどってしまった。

 もっとも、絵画の世界と、映画や小説の世界は、あくまで別の物。この話の場合は、登場人物の間に流れる官能が多かれ少なかれ肉感性を帯びることで、それぞれの人物の存在がぐっとリアリティを増している。そして、その肉感を、フェルメールの絵画にふさわしい押さえた筆致で描くことで、主人公の少女は本当に実在したのではないか、と思わせることに成功している。その説得のある人物造詣が、作家の創作力であり、巧みな表現力なのだと思う。

 あと一つ、残念だったのが、登場人物の名前の仮名表記。主人公の少女の名は、原作和訳ではオランダ語読みでフリート、映画では英語読みでグリートになっている。少女に想いを寄せる青年の名ピーテルも、ピーターと英語読みである。映画が英語圏のスタッフと俳優で製作され、台詞もすべて英語なので(そういう意味では原作も本来、英語なのだけれども)、仕方がないのかもしれないが、原作和訳のオランダ語の響きが物語の雰囲気にとてもしっくり合っていた分、オランダ語で通して欲しかった。
フェルメールの世界は、やはりあの時代のオランダから生まれたものであるのだから。

スカーレット・ヨハンソン
コリン・ファース

エッシィ・ディヴィス
ジュディ・パーフィット
トム・ウィルキンソン