Czech
プラハ城遠望/Prazský hrad

 プラハの街を見守るように、フラッチャニの丘の上に佇むプラハ城。ブルタヴァ(モルダウ)川越しに、カレル橋とプラハ城を臨む構図は、プラハのシンボル的景観です。旅人は、この眺めを見て、プラハに来たことを実感します。

 川を挟んで手前が東岸、向こう岸が西岸です。西岸の中でも、プラハ城の麓にあたるマラ−・ストラナ(小地区)と呼ばれる一帯は、16世紀以降この街を支配したハプスブルク家に仕える貴族や役人の屋敷が並び、今も、格式のある立派な街並みを形成しています。そこを行き交う人々の言葉も、1918年チェコが独立するまでの支配層の言葉、ドイツ語でした。

 1999年11月の終わり、三年間滞在したデンマークに別れを告げたErillは、日本に帰国する前にヨーロッパの古都を巡ることにしました。最初に訪れたのは、チェコの首都プラハです。

 中世からバロック、ロココと、ヨーロッパの建築史上さまざまな様式の建物が混在する、さながら建築史博物館のような街並みの間に教会の塔が林立する姿は、「百塔の街」と称えられます。

 プラハの魅力は、街並みの美しさだけではありません。心に残る街には、その街にしかない独特の雰囲気があります。プラハは、Erillが訪れたことのある他のどのヨーロッパの街とも違う、濃密にして、包み込むような温かい空気が流れていました。入り組んだ路地の石畳や家の壁に、それぞれの時代を生きた人々の体温が染みついているような、歴史の陰影と人の息吹の温かさが混ざり合う、不思議な雰囲気に包まれていました。

 

<プラハ/Praha>

<チェスキー・クルムロフ/Cheský Krumlov>

聖ヴィート教会/Katedrála sv. Víta

 プラハ市街を見降ろすフラッチャニの丘に、一きわ高く聳えるのは、聖ヴィート教会の尖塔です。塔の高さは96.6mもあります。930年の建造当初は簡素なロマネスク様式でしたが、その後いく度か改築を繰り返し、1344年の大改築を経て、現在のようなゴシック様式の威風堂々たる姿になりました。
 
 内部には、アール・ヌーヴォーの画家アルフォンス・マリア・ムハ(ミュシャ)の手によるステンドグラスがあり、繊細な華麗さです。

ヴィシェフラド墓地/Vysehrad

旧市街の街並み/Staré Mesto
旧新シナゴーグ/Stranová synagóga

 旧市街の下流を占めるのが、ユダヤ人街(Josefov)です。ここには、数多くのユダヤ教寺院シナゴーグ、旧ユダヤ人墓地、針が逆さまに回る時計を持つ集会所等があり、まるで時間の迷路の果ての袋小路にでも迷い込んだかのような、独特の雰囲気です。

 写真の旧新シナゴーグは、1270年頃建造のヨーロッパ最古のシナゴーグです。内部の壁には、1398年の反ユダヤ暴動で犠牲となったユダヤ人の血痕が残っています。

旧市街広場夕景/Staromestské námestí

スヴォルノティ広場/Nám Svornosti

アントン・ドヴォルザーク(1841〜1904)
石造りの立派な廟所になっています

ベドルジハ・スメタナ(1824〜1884)
奥に見えるのは、聖ペテロパウロ教会

 プラハから列車に揺られること4時間、ボヘミアの深い森に抱かれた、珠玉のようなチェスキー・クルムロフの街があります。ボヘミア丘陵と、ヴルタヴァ川の谷が織りなす起伏ある自然と、赤い屋根の家並みの調和が美しい、ユネスコの世界遺産にも指定された所です。

 13世紀、南ボヘミアの豪族ヴィーテク家によって礎が築かれたこの町は、今なお中世そのままの佇まいです。

 写真は、街の南の外れ近くの道から、ヴルタヴァ川の流れる街並を望んだところです。街の中心は右岸で、聖ヴィート教会の柔らかなタマネギ頭の塔の向こうに、チェスキー・クルムロフ城の塔が一段と高く聳えています。

 11月の終わり、すでに冬を迎えたヨーロッパの日の入りは早く、四時ごろには暮れなずみます。街が薄暮に包まれるころ、旧市街広場の中央に立てられたクリスマスツリーに灯りが燈ります。クリスマスツリーの左後ろ、二本の尖塔が印象的なゴシック式聖堂は、ティーン聖母教会です。

 プラハ城の聳える西岸のマーラ・ストラナが貴族や官僚の住む空間だったとすると、東岸の旧市街は、商人や手工業者の住む空間でした。

 写真左は、旧市街の中心にある旧市街広場から、二、三筋離れた所にある通りです。壁面の装飾が、彫刻細工でなく、ペインによるト装飾であるところが、チェコの街らしい特色です。
 

 チェコ人、ドイツ人、ユダヤ人等、複数の民族が住み着き、複雑な万華鏡のような様相を呈していたプラハ。その陰影が最も深まる空間が、ユダヤ人街にはあるようです。

 11月末から12月にかけてのこの時期、クリスマスを迎えようとするヨーロッパの街にはイルミネーションが灯り、中心の広場にはクリスマスツリーが立ち、クリスマス市が催されます。プラハの旧市街広場も、クリスマスの飾りや食べ物を売る出店からもれる灯りで覆われ、まるでおとぎ話の街のような幻想的な雰囲気を醸していました。

 街の中心からトラムを乗り継いで、プラハの南側にあるヴィシェフラドの丘を訪ねました。ここにはチェコを代表する二人の作曲家スメタナと土ヴォルサークが眠るチェコ国民墓地があります。

 ブルタヴァ川の流れを見下ろす丘の上には、古城の廃墟があります。スメタナの交響詩「我が祖国」の第一曲「高い城」で、高らかに謳われる伝説の城です。

プラハの繁栄を預言したという、七世紀のプシェミシル王家の王妃リヴシェの伝説を始め、ボヘミア王国の黎明期を伝える神話伝説に彩られたこの丘は、チェコ人の心の故郷ともいえる地です。

 チェコをこよなく愛し、ヴィシェフラドへの想いを音楽に綴ったスメタナほど、ここにふさわしい人物はないでしょう。聴覚を失い、精神の病のうちに不幸な人生を閉じたスメタナ。今、この丘の上で、ヴルタヴァの流れを傍らに、どのような音を聴いているのでしょうか。

チェスキー・クルムロフ城より街を臨む

 高台に立つチェスキー・クルムロフ城の城壁から、街の中心を眺めました。街をぐるりと囲むような大きな曲線を描いて流れるブルタヴァ川に守られるように、家々の赤い屋根が折り重なっています。どこか童話的な香りのする佇まいです。

 いつか再び訪れることがあれば、夏のチェスキー・クルムロフを見たいと願います。ボヘミアの森の深い緑のただ中に、赤い真珠そのままに輝くチェスキー・クルムロフの、こよなく愛らしい姿を・・・

チェスキー・クルムロフの中心を成す広場です(写真左)。プラハと同じく、この広場でも、壁に装飾をペイントで描いた家が色とりどりに並んでいます。街には、壁一面に本格的な壁画を施した家もありました。

クリスマスの通り

チェスキー・クルムロフ城の門を出ると、Latránという名の通りに
出ます。この日は、土曜日。大きな星のついたクリスマスのイルミネーション飾りの下は、店の開いている午前中に買い物をする人々で、ちょっとした賑わいでした。

 プラハ市内の移動手段は、トラムまたは地下鉄です。ある日、地下鉄の駅で切符を買っていた時のことです。切符は自動販売機で買うのですが、慣れない通貨に、なかなかぴったりの額のコインを見つけることが出来ません。

 プラハの街は、増え続ける観光客を狙って、スリも増えています。駅で財布を開けて、掻き回しているなんて、格好のスリの餌・・・しかし、そう思って焦れば焦るほど、探しているコインは見つかりません。

 すると、背後から人が近づいてくる音がします。とっさに「やばい!」と思って顔を上げると、よたよたの服を着た、髪もぼさぼさの男の人が、Erillと自販機の間に割り込んで来るやいなや、素早くコインを投入しています。何が何だか分からずに混乱していると、男の人は、チェコ語で何か言いながら、Erillに出てきた切符を手渡しました。

 何と男の人は、見も知らぬ人のために、自分のお金で切符を買ってくれたのでした・・・!あっけにとられながらも、ようやく口から出た“Thank you.”というErillの言葉も耳に入らない様子で、男の人は、何やらぶつぶつつぶやきながら去って行ったのでした。
 チェスキー・クルムロフを出たErillは、鉄道でウィーンを経由してイタリアに向かう予定でした。オーストリア行きの列車に乗るには、まずチェスケー・ブディヨヴィツに出る必要があります。列車とバスの二通りの方法があるのですが、行きが列車だったので、帰りはバスにしてみました。

 鉄道より料金が安いので、地元の人が沢山乗っています。運賃は乗車時に運賃箱に投入するのですが、Erillの順番の時、運転手さんは他の乗客と話をしていて、Erillがお金を入れているところを目の当たりにはしていない様子でした。

 さて、Erillが空いている席に座ろうとすると、運転手から背中を叩いて呼び止められました。運転手さんは、チェコ語で何かまくしています。どうやら、「運賃をまだ払ってないから、払いなさい」と言っているようです。Erillは、「確かに払いました」と、英語とドイツ語で言ってみたのですが、一向に通じません。ただならぬ気配に、バスの乗客も立ち上がって、「何だ、何だ」とばかりに、運転手と私の周りにわらわらと集まってきました。

 Erillは窮地にありながらも、この人々の行動に、東ヨーロッパらしい人々の雰囲気を感じ取りました。大学院の先輩で、ユーゴスラヴィアに留学していた人がいました。その方の話だと、東欧は人情が厚く、道ばたで何か目を引くことがあると人々が集まって来る。例えば、東洋人が一人歩いいるだけでもどこからともなく人が集まってきて、いろいろと話しかけられるそうです。日本や北ヨーロッパだと、今起こっている程度のことでは、他の乗客は気にも留めず席に着いているでしょう。

 怒りが昂じた運転手さんは、周りを囲む人々に向かって、まるで演説をぶつようにチェコ語で語り始めました。「みなさん、ここにいる不届きなアジア人が、私のバスにお金を払わずに乗ろうとしています。」(と、おそらく言っているのでしょう。) それにしても、恥ずかしい・・・私は、なすすべもなく、ただ呆気にとられていました。

 すると、まだ席に座っていた紳士風の人が一人立ち上がって、私と目を合わせたかと思うと、「私は君が払うところを見ましたよ。」と英語で言って、運転手の所に行き、チェコ語で説明をしてくれたのです。何とありがたい!その人は、私の二人くらい後に乗ってきた人でした。この人の話で、運転手さんは納得し、集まってきた乗客は席へと戻っていったのでした。Erillは、助けてくれた方に何度もお礼を言って、席に着きました。こうして、バスはやっと発車したのでした。

 チェスキー・クルムロフを出たバスは、冬枯れの田園の中を走ります。夏には、スメタナが交響詩「ボヘミアの森と草原にて」に描いた、うだるような暑さの中に草の香が匂いたつような、一面の緑の草原と森が拡がっているのだろうな・・・一度、見てみたいものよ、と、夏のボヘミアに思いを馳せているうちに、約50分後、バスはチェスケー・ブディヨヴィツの駅に着きました。

 バスを降りる時、再び運転手さんに引き留められました。運転手さんは、握手の手を差し伸べ、英語で一言、"Sorry”と謝ってくれました。一騒動のあった中にも、中欧の田舎の人情に触れたような心温かい気持ちで、駅へと向かったのでした。