この後は、ヘルシンキからシリヤラインでストックホルムへ移動し(この航路の印象記は、フィンランドのページで)、コペンハーゲンへの帰路に着いたのでした。
 午後1時、帰りのフェリーに乗船しました。6階まである立派な船で、キャビンまであるのに驚いてしまいました。 そして、高速船欠航のお詫びに、レストランでスカンジナヴィア式ビュッフェが無料で出され、かえってゆったりした、いい船旅になりました。
ドからの買い物ツアーの客を運ぶ観光バスが何台も並んでいます。 エストニア人と比べて、フィンランド人は小綺麗で良い身なりなのですぐ分かります。なんだか、他のアジア人と比べて日本人が身綺麗に見えるのと似ています。フィンランドの失業者は、失業保険でのぎりぎりの生活を楽にするため、2週間おきくらいにエストニアに買い出しにきて、食料と生活用品をいっぺんに買いだめする、という宿のおばあさんの話を思い出しました。もっとも、そんな切実そうな人より、お酒売場でビールを何箱も買っている気楽な人々がほとんどでした。
 外見は大きな郊外スーパーマーケットのようですが、中には洋服や雑貨を売る屋台が、びっしり並んでいます。屋根のある大市場です。駐車場には、フィンラン
 10月2日土曜日、午前中にタリンを出てヘルシンキに行くつもりが、晴天にもかかわらずバルト海が荒れて予約していた高速船が欠航、午後1時発のフェリーに振り替えとなりました。街に戻り、もう一度旧市街の主なところを歩きました。ラエコヤ広場のカフェで何枚か絵はがきを書き、それでも時間が余ったので、旧市街の城壁を出て港に向かう途中にある、ショッピングセンターを覗いてみました。
 1991年にエストニアが独立したときに次々と争うように始まったビジネスも、今はほとんどがはじけてしまい(1999年当時)、経済が悪化する中、エストニア人の間で民族主義が強まり、雇用主のほとんんどを占めるエストニア人が、人口の半数近くのロシア人に職を与えず、高失業率に民族感情がからむ深刻な状況が起きているとの話でした。(後で知ったのですが、ロシア人の高失業率は、ロシア人がエストニア語を覚えようとしないことにも問題があるそうです。)
 明日はフィンランドへ発つという夜、宿のおばあさんと最後のおしゃべりです。エストニアの物価はデンマークや日本の半分くらい、でも給料は4分の1から5分の1で、私たちには安くても暮らしている人には随分つらい物価水準です。 例えば、宿のおばあさんの年金収入は月約1500クローネ(1999年当時は、1エストニア・クローネ=8〜10円)ですが、そのほとんど同額がアパートの家賃に消えてしまうそうです。
 夕方、タリンの街に戻ると、空に大きな虹が架かっていました。 天気の変わりやすいヨーロッパでは、虹がよく出ます。あわてて街を見下ろすトーンペアの丘の展望台に登りました。 タリンの街の赤い屋根は、雨上がりの陽を受けて真珠のように輝いていました。
青々した牧草地の上には、黄金色の落ち葉が一面に敷き積もっています。博物館の遊歩道は、その先、森の中へ誘い込むように延びていますが、入ると出て来られなくなりそうな深いたたずまいです。そして、波の音。そこにあるのは、天然の豊かさと静けさでした。
 周辺一帯は、 イタリア語で"ロカ・アル・マーレ"「海辺の石」と呼ばれています。西海岸に浮かぶ島から移された大きな木造の風車を越えて、海沿いを歩きました。ほどなく、海に向かって開けた草地に出ました。 湾になって右手に入り込んだ海を隔てて、遠く塔の並ぶタリンの街が見えます。 左手には海が広がり、すぐ際まで森の迫る低い断崖がずっと先まで続いています。 森の入り口近く、まだ
 やがて木がだんだん多くなり、森の中へ入っていきました。 人の手が行き届かないと、自然は手つかずの姿で残ります。 まだまだタリンの郊外で、地図を見ると市街地と市街地の間の森に過ぎないのに、鬱蒼としげる木々は野趣があり自然そのままです。今住んでいるコペンハーゲン郊外の森のどこか人手の入った感じは全くありません。エストニア各地の古い民家を集めた野外博物館は、大きな森の一角を切り開いた敷地に、木造の古い農家が無造作にぽつりぽつりと立ち、大自然の中ひっそり寄り添う昔の村のたたずまいそのままです。
 走り出したバスから見える郊外の民家は、何十年も前に立てられたままのような古い小さな木造で、手入れもままならない様子です。廃屋のような家も見えます。
 そして、旧市街を囲む城壁の外へ一歩出ると、旧ソ連の世界です。 10月1日の午後、雨空が晴れたので、郊外の森と海に囲まれた野外博物館に出かけましたが、城壁をすぐ北に出た所にある鉄道駅とバスターミナルの回りは、プレハブの箱のような売店がずらりと建ち並び、モスクワやサンクト・ペテルブルクの駅周辺のような騒然とした空気です(Erillはこの旅の一年半前、モスクワ留学中の友人に付きっ切りで案内してもらって、この二つの街を訪れています)。 バスは、郊外用も、地方への長距離バスもほとんどが旧式、舗装が悪いのか、新しいものも一様に泥をかぶり、窓は埃でくもっています。
 街の中心は、市庁舎のあるラエコヤ広場です。重々しい石造りの市庁舎と並んで、綺麗な色遣いの建物が並んでいます。カフェや土産物屋、ツーリスト・インフォもあり、夏はたくさんの人で賑わうのでしょうが、この季節はさすがに少し静かでした。
 赤い家並みを見ながら坂を降りれば、石畳の道に、赤い屋根にピンクやブルー、グリーンなど、色とりどりの壁の家々が連なり、その間に教会の先頭が聳えています。 ドイツによく似た中世の街並ですが、それよりもカラフルで端正なたたずまいです。露骨に観光化されてない分、静かで落ち着いています。 ロマンチック街道などと比べて、街並みに北方的洗練があり、とても好い雰囲気です。
 9月30日、タリンの街を散策しました。「タリン」は、エストニア語で「デンマーク人の街」の意味です。 街を見下ろすトーンペアの丘には、デンマークの十字軍が立てた大聖堂、現在エストニアの国会になっているトーンペア城、そしてロシア正教の聖堂といった、タリンの歴史の証人のような建物が並んでいます。
Estonia
 1999年9月、コペンハーゲンからフィンランドとエストニアの旅に出ました。9月25日から28日までの4日間は、フィンランドでタルトゥとヘルシンキの街、そして秋の彩りに染まるサヴォンリンナ地方を巡った後(詳細はフィンランドのページへ)、9月29日、再び列車でヘルシンキに戻り、夕方の高速船でエストニアの主都タリンへ向かいました。ヘルシンキの港の建物は板張りのまるで建設中という感じで、北欧らしくないうす暗さです。もうここかうエストニア、と緊張しながら乗船しました。 沖に出た頃から晴れ上がり、バルト海の深い青が広がっています。

 1992年、初めてヨーロッパに飛んだとき、上空から見た夏のバルト海を思い出しました。 ロシアを抜けて、初めてさしかかるヨーロッパの海がフィンランド湾です。座席前のモニターにエストニア上空の案内が出て、下を見ると、夏のヨーロッパのくっきりした緑の横に、まるで突然開いた穴のように、ぽっかりと現れた青い海・・・

 フィンランドの叙事詩「カレワラ」の冒頭の創世神話が、脳裏に浮かびました。原初の海に漂う大気の乙女の膝に、一話の鳥が飛んできて6つの黄金の卵を産み付けます。乙女が膝を揺すぶると、卵が海に落ち、殻から空と大地が、黄味から太陽が、白身から月が、まだらから星が、黒いところから雲が生まれます。 その世界が生まれた海を彷彿とさせる、大気の乙女が漂っていた頃そのままのような、まるで海の底にあるもう一つの空とつながっているような、ぽっかりと抜けるような青い色・・・
 今、そのフィンランド湾を、エストニアに向けて横切っているのです。

 しかし、神話の海、などと浸っていたのも束の間、しばらくして、波が荒くなり、すごい揺れになってきました。まもなく、数年ぶりのひどい船酔にみまわれました。 北杜夫の「ドクトルマンボウ航海記」に、「船酔いを防ぐには、揺れ始めると立って歩くとよい」、と書いてあったのを思いだし、試しに立って歩いてみました。 確かに酔いは収まるものの、それ以前の問題で、なんとか足を運ぶのがやっとで、このまま転ばないですむとは思えません・・・諦めて椅子に横になりました。酔いは、それでも収まらず、結局、緊急紙袋のお世話になることになってしまいました。そして、この悪天候で、30分遅れのタリン入港となりました。

 よれよれ状態で荷物を引きずりながらの、エストニア上陸です。思いのほか港は新しくきれいで、まるでフィンランドとエストニアが反対になったような印象です。
 夕暮れの薄闇のなか、すぐ前の小高い丘に赤い屋根が積み木のように並び、教会の尖塔がライトアップされて影絵のように浮かんでいます。タリンの夕景です。城壁をくぐりたくなるのを抑えて、おとなしく宿へ向かいました。

 タリンでは、一般家庭の空き部屋を利用した民宿に泊まりました。私がお世話になったのは、旧市街から徒歩5分の、ロシア人のおばあさんのアパートです。劇場のすぐ近く、旧市街から歩いて5分のところにある築50年の、いかにもソヴィエト時代の建築と言う感じの、コンクリート5階建ての建物です。
 英語は当然通じないだろうし、エストニア語かロシア語だけなのを覚悟して、昔かじったロシア語を一生懸命思い出しながら呼び鈴を鳴らしたら、中から出てきたおばあさんの挨拶はドイツ語。えっ?と驚きましたが、これで何とかなるとほっとし、それでも使ってみたさから、性懲りなくロシア語での会話を試みました。が、名前は?どこに住んでいる?学生?働いてるの?タリンは大変美しい、というあたりで早くも限界に至り、やはりドイツ語で話してもらうことにしました。この頼みだけは、さすがにロシア語で言えました。

 高校でドイツ語を教えていたというおばあさんのドイツ語も、ここ数年ぜんぜん使っていない私のドイツ語も、たどたどしくよく似たレベルで、難なく(?)コミュニケーションがとれました。
 エストニア全体としては、フィンランドとロシアの中間、この2つを足して2で割ったような印象です。北欧のように安全な雰囲気ではなく、歩くときは絶えず緊張気味でした。 城壁の中の旧市街は、市庁舎の立つラエコヤ広場を中心に、西側からの観光客を意識したレストランやカフェ、土産物屋が軒を集め、あまり旧西側と変わらない感覚で過ごせますが、安い物価や、少し中心から外れると古びてくる建物とさびれたままの通りが旧共産圏を意識させます。
  この日は、広場から少し行った所にある、ちょっと面白いレストランで昼食を取りました。「Olde Hansa」という、中世のメニューを再現した所です。ウェイトレスさんの制服も、中世風です。豚肉料理を頼んでみました。重めの、濃い味付けでしたが、なかなかの美味でした。