Italy

 「君よ知るや南の国 レモンの花咲き 緑濃き葉かげには 黄金のオレンジ輝き・・・」 

 イタリアへの憧れを詠った、あまりにも名高い、ゲーテの詩「ミニヨン」の一節です。アルプス山脈の北に位置する国々に暮らす人々にとって、地中海の明るい日差しが降り注ぐイタリアは憧れの地でした。ドイツから北の地域では、秋から冬にかけ極端に日が短くなり、雨交じりの陰鬱な天候が延々とほぼ毎日続きます。デンマークにほぼ三年暮らしたErillも、冬のあまりの暗さに辟易し、冬の休暇がくると南を目指すヨーロッパ人達の気持ちが痛いほど分かるようになっていました。そして、同時に、自分の中でも太陽にに対する渇望は、ほとんどピークに達していました。

 こうして、南へ誘われる気持ちと、帰国する前に一度はヨーロッパでも最も長い歴史を誇る南欧を訪れたいという二つの動機から立ち寄ったイタリア。いくら地中海の畔でも、冬はそこそこ暗いのだろうと思っていました。まずチェコに行き、ウィーンで列車を乗り換えてアルプスを越え、ヴェネツィアのサンタ・ルツィア駅に降り立ち、運河に出て水上バスに乗るべく、外に足を踏み出した私は、しかしそこで目が眩むような感覚にとらわれました。

 露天の喧噪、水上バスのエンジン音、いつ崩れてもおかしくなさそうなビザンツ様式の建物・・・そこには、今まで知っていた、整然とした秩序ある北西ヨーロッパとは全く異質な世界が広がっていました。露天の人々の呼び声と、雑多な雰囲気に、自分はトルコに来たのかと錯覚しそうになります。

 そして、頭上には、晴れやかな青空。北欧の冬を思うとまるで夢のような、とても同じヨーロッパの12月とは思えない、懐かしい日本の太平洋岸の冬を思い出す、明るい、鮮やかな冬空・・・

 そう、ヨーロッパの中で、イタリアは、まさしく一年中「太陽の南」なのです。ああ、これでは、アルプス以北の人々が憧れるのも当然。

 ・・・というわけで、実は「太陽の南」に入れるべきなのかもしれませんが、それではこのサイトとしてはあまりに例外扱いですので、「温帯は月の北」という区分で、こちらに入れされて頂きました(笑)。

<ヴェネツィア/Venezia>

マンジャの塔より/Torre del Mangria

シエナの街の中心は、カンポ広場です。「世界で最も美しい広場」と呼ばれるこの広場の南東には、13世紀末から14世紀初頭にかけて建造されたプブリコ宮殿が建っています。現在は、市庁舎と博物館になっています。その隣には、14世紀後半に建設された高さのマンジャの塔が聳えています。どちらも、ゴシック様式の、重厚なレンガ造りの建物です。


ドゥカーレ宮殿と大鐘楼
  /Palazzo Ducale and Campanile

 
大運河を行き交うヴァポレットは、ヴェネツィアの中心、サンマルコ広場の前にさしかかります。まず手前に、コッレ−リ美術館の入っている廻廊が見え、その向こうには、高さ96.8mの鐘楼が天を突くように聳えます。

 その並びの、運河に面して壮麗なビザンツ風の柱廊が並ぶ建物は、ドゥカーレ宮殿です。ドゥカーレとは、「総督」の意です。ここは、ヴェネツィア共和国の元首である総督の官邸でした。奥には、サン・マルコ大聖堂の姿が覗いています。

 東方貿易で繁栄を極めたヴェネツィアの、絢爛たる表の顔です。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会
   /Chiesa di San Giorgio Maggiore

 ドゥカーレ宮殿の前に佇むと、サン・マルコ運河を隔てて、ちょうど運河口にあたる所に、鐘楼のある小島が浮かんでいます。「水辺の貴婦人」と称えられるサン・ジョルジョ・マッジョーレ島です。島全体が修道院になっているこの島からは、天気が好いと、素晴らしい見晴らしに出会えます。特に午前中がいいと聞き、朝食をとってすぐサン・ザッカーリアのヴァポレット乗り場から、に向かいました。

 教会は、16世紀ルネッサンス末期の建築家、パッラーディオの設計です。祭壇画「最後の晩餐」は、マニエリスムの画家ティントレットの名作ですが、ヴェネツィア派の絵画が苦手なErillは、どうも食傷してしまいます。

運河とゴンドラの街

ヴェネツィアに着いたErillは、まず街の中心部に取ってあるホテルに向かうべく、ヴァポレットと呼ばれる水上バスに乗りました。ヴァポレットは、駅からサンマルコ広場を結ぶこの街の幹線、大運河を進みます。

 運河の左右の水辺には、様々な時代の建物が、装飾を凝らした色とりどりのファサードを向けています。アラベスク文様にビザンツ風の柱廊などの装飾はどこか東方的で、豪奢の中に退廃の香りが漂っています。ゲルマン圏の街のように手入れが行き届いておらず、所々朽ちかけている様が、また歴史的な趣を添えています。

 サンマルコ広場の桟橋でヴァポレットを下り、広場の裏手の路地にあるホテルで、日本から来た友人と合流しました。

大聖堂/Duomo

 建物の上部は13世紀後半のロマネスク様式、下部は14世紀後半の後期ゴシック様式です。これでもかというほど装飾を凝らした建物は、美しいという言葉を超えて、とっても派手です。

 聖堂を見て、街を一周した後、カンポ広場に戻って腰を下ろしました。そして、見上げた空の色に、はっと息を呑みました。澄みきった深いコバルトブルーの、天空まで突き抜けるような、人工的なまでに鮮やかな青。日本ではとても見られない、そしてこれまでヨーロッパの他のどの国でも見たことのない色彩です。

 迷路のような路地を歩きまわってホテルに戻り、ほっと一息つき、ふと窓の外を見やると、空が夕焼けの赤い光に染まっています。誘われるようにドゥカーレ宮殿前の運河の畔に出ると、昼の光の下では輝くように見える白亜の大理石のサンタ・マリア・デラ・サルーテ教会が、水面を隔てて紅く煌めく雲を背に、端正な黒い影絵となって浮かび上がっていました。
 鐘楼に上ると、真下に十字型の聖堂とドームが白い屋根を輝かせ、その彼方にジゥデッカ運河の碧い水と、サンタ・マリア・デル・サルーテ教会、大運河を挟んで本島が見えます(写真上)。ヴェネツィアの都市景観を描き続けた、カナレットの絵そのままの晴れやかな色彩です。

 少し目線を右にそらし、サンマルコ広場とドゥカーレ宮殿を臨みます(写真左)。淡いピンクと白の建物群と、そこから真っ直ぐに伸びる大鐘楼の向こうには、白く輝くアルプスの峰・・・

 ビザンツ帝国やオスマン・トルコと凌ぎを削りながら、アドリア海の覇権をとり続けてきた要塞都市ヴェネツィア。「アドリア海の女王」として君臨してきた街の形をまざまざとみるような、華やかで遠大なパノラマでした。

 3日間のヴェネツィア滞在の後、ミラノを訪ねました。ドゥオモ(大聖堂)の威容と、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会でレオナルド・ダ・ヴィンチ筆の「最後の晩餐」を拝んだ後、花の都フィレンツェに向かいました。Erill 憧れのルネサンスの都です。

 通りを歩いて、またびっくり。豪奢なヴェネツィアの街並みと異なり、まるで要塞の城壁をそのまま建物にしたような、装飾のほとんどない堅牢な石造りの建物が並んでいます。

 古代ローマの滅亡から19世紀にイタリアが統一されるまで、小国に分裂し相争っていた時代、それぞれの公国や都市国家は独立を死守するため、武装する必要がありました。海という天然の要塞に守られていたヴェネツィアでは、丘の上の建物は純粋な市街空間として思いのままに飾ることが出来ましたが、小国同士が陸続きで隣接していた丘陵地帯のトスカーナでは、いつ戦乱が起こっても耐えられるように、街並そのものを堅牢な要塞に仕立てる必要があったのでしょうか。

 ヴェネツィアの街が華美で女性的であるとすると、フィレンツェの街は質実剛健で男性的です。けれども、その重厚な石壁の中には、溢れるようなルネサンス美術の至宝が詰まっています。

 しかし、トスカーナの魅力はフィレンツェだけではありません。なだらかに折り重なるトスカーナ丘陵と小さな街の風景を求めて、フィレンツェから路線バスに揺られること一時間半、中世の面影を色濃く残したシエナの街を訪ねました。
<シエナ/Siena>
 

マンジャの塔の上から市街を見ると、シエナの街が三つの丘にまたがっていることが、よく分かります。そして、その向こうに緑に波打つトスカーナ丘陵。冬なお晴朗な、田園の中に息づく街の眺めです。

 その土地の風土と色彩が、そこに暮らす人々の文化、ひいては精神を育てる。そのことを、鮮明に仰ぎ見た瞬間でした。

 ヴェネツィア滞在中、近郊の大学町パドヴァまで足を伸ばして訪ねた、スクロヴェーニ礼拝堂のジオットのフレスコ画を思い出しました。そこに描かれていたのは、やはり突き抜けるように鮮やかなコバルトの蒼天。空の奥に透ける宇宙の色でした。それは、宗教画家の心が描き出した、観念的色彩だと思っていました。しかし、本当の空の色だったのです

 Erillがイタリアを訪ねたのは1999年の12月。イタリアでは、どんなクリスマス飾りが見られるのか楽しみにしていました。北方のゲルマンの国ではリンゴがよく飾ってありますが、イタリアでは南方らしくオレンジになるのだろうかと思っていたら、本当にそうでした。フィレンツェの街には、オレンジを吊るしたクリスマス・ツリー。街中の通りや、ヴェッキオ橋に並ぶお店の軒先に渡してある常緑樹のモールには、柑橘類があしらわれていました。

 ツリーはドイツから入った習慣ですが、たとえ外来の習慣だったとしても、伝統行事には、やはりその土地で自然に採れる物が使われるのだなあ、と感じ入った次第です。