2004年 主な訪問地 宿泊先 天気
8月15日(日) 室戸岬周辺散策 岬観光ホテル
8月16日(月) 吉良川町町並散策
中岡慎太郎生家
中岡慎太郎記念館
濱口雄幸生家
岩崎弥太郎生家
安芸城周辺散策
桂浜
坂本竜馬記念館
冨久美味
8月17日(火) 濱口雄幸記念館
高知県立美術館
竜馬の生まれた町記念館
旧山内家下屋敷長屋
高知城
高知県立文学館
 

 なにゆえ、高知は、近代日本において国の行く末を大きく左右する大変動期に、かくも偉大な人物を輩出したのか・・・

  明治への扉を開いた  
坂本竜馬  中岡慎太郎
  暗雲立ちこめる昭和初期に平和の道を貫いた宰相  
濱口雄幸
  荒廃した戦後日本を立ち直らせた宰相  
吉田茂

日本と世界、 その大波に揉まれながら

            日本という国家

のあり方を想い、今の我々の生活の礎を築いた偉人達。 思えば、坂本竜馬・中岡慎太郎・濱口雄幸は、凶弾の前に倒れることになりました。命をかけて国家に尽くし、江戸幕藩時代から明治近代へ、軍国主義から民主主義へと時代を動かしてきた原動力が高知にはあります。

 その原動力は、何が生み出したのか、気候・風土・人情・・・?、その問いかけを胸に 「いざ、土佐へ」 と繰り出しました。

○プロローグ

 この旅は、8月14日にErill のお祖母さんの初盆で徳島に帰省し、翌日、その足で高知に向かったのでした。この旅が始まる前、Erill は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を半ば以上読み終えており、土佐情勢についてはかなりの蘊蓄を得ており、無礼にも、いえ失礼、有り難くも、道すがら、本来ならば幕末情勢に関しては大先輩であるはずの Tarlin に様々な講釈をたれながらの旅となりました。

○室戸岬

 四国の角とも呼べるた室戸岬。 ここでは、まずは、何をさしおいても、中岡慎太郎先生の像に挨拶をしなければなりません。

 岬の浜に降りてみて気付いたことですが、この中岡慎太郎の銅像は、その上方にある白亜の室戸岬灯台と真一文字に並んで、真っ直ぐに太平洋を睨んで建っています。 この像が建立されたのが、日本が激動の国際情勢の渦の中に巻き込まれつつあった昭和10年。海路の安全を守る灯台と共に、死しても尚、御国の楯となって欲しいとの当時の人達の気持ちが込められているのでしょうか。

○室戸のお宿

 徳島をお昼頃に出たこの日は、室戸で一泊しました。 宿泊させて頂いたのは「岬観光ホテル」、少し古びた感じのする宿ですが、年老いたお祖母さん達が切り盛りしておられ、何となく「ほっ」とできる宿でした。

 ここのご自慢は、太平洋から上る朝日なのです。

 出立の朝、東の空には、少し厚い雲が立ちこめていて、水平線から上ってくる朝日を拝むことは出来ませんでしたが、少し時間が経つと、雲の切れ間より射してくる日の光で海の色がブロンズ色に染まり、洋上の釣り船が見事なシルエットとして浮かび上がり幻想的でした。 (されど、Erill は夢の中・・・)

○吉良川町並百景

 室戸を発って、20分くらいで吉良川町に入ります。 吉良川町は古く高品質な備長炭の生産と、それを大阪方面へ運ぶための廻船業で栄えた町であり、往時の繁栄を偲ばせる伝統的建築物が残っています。 このような町並を研究をしている(嘘です。単なる粋狂者) Erill と Tarlin は、町の人達の迷惑も考えずに、朝早くから、「おお、これは素晴らしい!」等と感嘆の声を上げながら、町並みの風景を撮りました。
 では、Erill と Tarlin が選んだ 「吉良川町並百景」をどうぞ。

【ぶっちょうのある家】
玄関横に取り付けられた平板で、閉じられているときには雨戸の役割を、開くと縁台となるそうです。
壁面の漆喰を雨露から保護するために数段にわたって付けられたのが水切瓦です。

 (池田治英邸)
【水切瓦のある家】
台風や強風から家を守るための石塀で、石を半割にしたものす。切断面を揃えて美しい意匠となっています。
【いしぐろの塀】
暑い夏の日、この町ではゆっくりと時間が進んでいるような気持ちになれます。 当時の町の人達が行き交う姿を思い浮かべながら、町を巡りました。

○北川村 中岡慎太郎の生家を訪ねて

 吉良川の町を後にして向かったのは 「北川村」 そうです中岡慎太郎先生の生誕の地なのです。 薩長同盟の真の立役者でありながら、坂本竜馬に比べて今ひとつ(いや、ふたつ、みっつ?)メジャーになりきれない中岡慎太郎先生。 しかし、私たちの中ではヒーローの中岡先生。 彼は、いったいどんなところで生まれたのかを確かめに行きました。 

 中岡慎太郎の生誕地である北川郷(現在の安芸郡北川村)は、自動車で奈半利川沿いを上流に遡ること20分くらいの山深い里です。 写真をみてもわかるように山また山が連なる谷沿いにその生家はありました。
復元された生家です。 大庄屋とのことですが、比較的こぢんまりした造りでした。

また、近くには「中岡慎太郎記念館」があり、中岡慎太郎の生い立ちから、少年時代・青年時代までを丁寧に説明してくれます。中岡慎太郎を知るには本当に良い記念館だと思いました。

○田野町 濱口雄幸邸

 再び奈半利川沿いを下流に下って、細い入り組んだ路地を入っていくと、 Tarlin が心酔してやまない、元首相 濱口雄幸の屋敷があります。 最初 Erill は 「お幸って誰?」・・・(女性と思っておったのかっ)などと不届き千万なことを言っておりましたが、 Tarlinがその人となりを教えると、少しは感心したようでした。 

門に立てられている碑は、濱口雄幸が兇弾に倒れた病床で詠った句です。
なすことの
   いまだ終わらず
          春を待つ

○安芸市の町並みを訪ねて

 田野町から高知に向かって車を走らせると安芸市があります。この町もかつては城下町で美しい町並みが残されています。 また、三菱グループの始祖である岩崎弥太郎の生家などもあります。 

岩崎弥太郎の生家の土蔵です。 岩崎弥太郎が財を成してから造られたもので、三菱の紋所が入っています。 三菱の紋というのは、岩崎家の紋所である「三階菱」に土佐藩主山内家の紋所である「三ツ柏」を複合させて図案化したものとのことです。
安芸の名物である「野良時計」 明治20年に作られたものだそうです。

○いざ桂浜へ

 安芸の町に別れを告げて、一路向かったのは、そう、竜馬が大好きだったという、そして、後世の有志の手で建立された銅像のある桂浜です。 
 坂本竜馬はこの浜でこの海を見て何を感じたのでしょう。 そして、今でも銅像として太平洋を見つめる竜馬を見て、歴史に if は禁物と言われていますが、 「この人がい

なかったら歴史はどのように動いていたのだろう」と思わずにはいられません。

○桂浜のお宿

 坂本竜馬記念館を訪れた後、本日の宿「冨久美味」に入りました。桂浜の直ぐ傍にあり、月夜の晩であれば、有名な桂浜での月見をしようかと思うくらいのところにあります。
 この旅館は料亭も兼ねていて、その料理には定評があります。特に伊勢海老が絶品で、食事の時には女将さん自ら、食べ方を指南して下さいました。 美味しい料理に地酒(酔鯨)があれば何も言うことはありません。 Erill と幕末談義などをして、その日は更けていきました。

○濱口雄幸生誕の地

 冨久美味は、朝食がまた豪華極まりなく、十分なエネルギー補給をした後、まずは、濱口雄幸の生誕地を訪ねることにしました。 しかし、なにぶんガイドブックにも、どこにあるのか地図が詳細に示されていません。 そこで、宿を出立する際に女将さんに、「どうやって行けばよいでしょうか?」 と尋ねたところ、我々がよほど粋狂者なのか地元の方ですらご存じありません。 「ええい、ままよ」とばかり、大まかな地図をたよりに向かったところ、やはり道に迷いました、Erill に至っては、途中、「武市半平太生誕地」という標識を見るや、「私はこっちでもいいよ。」と言い出す始末。 それでも、行きつ戻りつしながら、何とか目的地に着きました。 
 小さな無料の記念館が併設されているのですが、 Erill もそこで濱口雄幸の真の姿を知るに至って、その偉大さに納得してくれたのでした。 また、ここでの小さなエピソードである小泉首相とそのおじいちゃんの確執については diary の 2004年8月19日をご覧になって下さい。

○シャガールの宝庫、高知県立美術館へ

 高知に来たら高知県立美術館。 それは、シャガールの絵が好きな人なら誰しもが思うことでしょう。 
   そうなのです。 高知県立美術館は日本、いや世界でも有数のシャガール収集美術館なのです。
         そして、コレクション展と称して展示されており、常にシャガールの絵を見ることが出来、

シャガールファンの Tarlin にとっては垂涎の美術館なのです。  

○旧山内家下屋敷長屋

 次は、粋狂者 Erill の真骨頂とも言うべきでしょう。 「土佐山内家宝物資料館」にでも行きたいと思うや、なんと、「旧山内家下屋敷長屋」を訪ねたいと申し候。 まぁ、そこは粋狂者同士とうことでおつきあいいたしました。 

○高知城登城

 旅もクライマックスに近づいてきました。 最後は高知城に上り、そして県立文学館を探訪することです。 高知城は、大手門と天守閣が同時に写真のフレームに入るところとして珍しいのだそうです。たまたま写真を撮っていると親切なタク

シーの運転手さんが寄ってきて、そのように教えて下さいました。また、 Erill と Tarlin を一緒に撮ってくれたりもしました。
 大手門をくぐると、板垣退助の銅像が天守閣を背景にして建っていました。 自由民権運動の先駆け、「板垣退助」 高知には、本当に何か自由の気風を日本という国に吹き込んだ偉人達が多いように思います。
 県立文学館では、「あぁ、この人も高知だったんだ」というような新鮮な驚きがありました。

○エピローグ

 近代日本を作ってきた人達の生まれ育った故郷を訪ねてきた旅も、ようやく終わりとなりました。 果たして、最初の問いかけに対する答えは出たのでしょうか。 我々の稚拙な知識では、その解を見出すことは至難ですが、この旅で一つ気付いたことは、高知という県は非常に長い海岸線を有し、また、その海岸線が海に向かって阻まれるものなくオープンとなっていることでした。 徳島育ちのErill も旅行中、しきりに「島も無くって一面海ね。」と感心しているところを察すると、この開放的な海岸線を持っていると言うことが、この地の人々に他県の人間とは異なる感受性を与えたのかも知れません。
 この旅行の後、 Tarlin も司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読み通しました。今再び、この地を訪れたいという気持ちに駆られています。